枚岡神社〔ひらおかじんじゃ〕概要2(本殿と奉納)
2011/11/11
今更ながら「本当に敷地が広なぁ~」・・・と、感心しつつ。
時の権力者であった中臣氏(藤原氏)の残像?を、あれこれと空想してしまいます。
ただ、藤原氏一色?であり、また、この規模と社格にも関わらず、どうやら、氏の
有力筋が公に参拝した記録がないようなので、少し不思議には思います。
とは言えこの規模ですから、ここは私が知る一宮という部分以外にも、本来の
お役目+aな別の意味合いがあるのでは??
などど、私の思考はファンタジーに巡ってしまうワケでして(笑)。
「概要2(本殿)」
奈良の春日大社へ御祭神二柱を分祀してから10年後の778年(宝亀9年)、
今度は春日大社から枚岡神社に武甕槌命と斎主命の二神の分霊が奉斎され、
本殿は四殿の4柱(御祭神)となり、現在に至ります。
古くから、中臣氏の一族である平岡連が守り世話をしてきたのですが、平安末期には
『水走〔みずはい〕家※』が祀職となり、河内一宮として 朝廷・民間からも
篤く祀られます。
度々の火災にも近郡の氏子により都度造営されますが、1579年(天正7年)9月、織田信長
の兵火による本殿以下諸建物の焼失に際しては、後の1602年(慶長7年)に豊臣秀頼公が
社殿の造営・復旧しました。
徳川の時代にはいり、衰退を余儀なくされるも、度々、修造・造営がなされ、
平成元年~3年に行われた平成の大修造より現在に至る神殿は、四殿並列極彩色が美しく、
枚岡造(王子造)と呼ばれる建築様式で、市の指定文化財にもなっています。
「概要2(奉納)」
1091年(寛治5年)8月12日・『堀川天皇※』「行幸 御馬・御幣・御太刀」奉納
1165年(永萬元年)・『平清盛※』「神馬・御幣」奉納
1171年(承安元年)・『源義経※』「太刀二振」奉納
1190年(建久元年)・『源頼朝※』「御剣・砂金」奉納
1338年(暦応元年)・『足利尊氏※』「宝物」奉納
1349年(正平4年)1月2日・『楠正行※』「太刀・物具」献納
1583年(天正11年)・『関白近衛前久※』「薩摩下向の途次参拝」
1602年(慶長7年)・『豊臣秀頼※』「行合橋改修・擬宝珠」奉納
1605年(慶長10年)・『桑山重正奉行※』「本殿建立」「釣燈籠」奉納
『堀川天皇※』
平安時代後期の第73代天皇(在位期間:1087年1月5日(応徳3年11月26日)~
1107年8月9日(嘉承2年7月19日))
諱〔いみな〕(実名)は善仁〔たるひと〕。
性格は上品・優雅・誠実な人柄で、朝政にも熱心に取り組み、『続古事談』では
賢帝と評されており、宮廷社会でも人望を集めた。
和歌にも優れ、管弦の腕前も優れていた。
『平清盛※』
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子で、平安時代末期の武将・公卿・政治家。
保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、武士では初めて太政大臣に。
「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの、平氏政権の時代を築くも
その独裁が貴族・寺社・武士などからは大きな反発を受け、源氏による平氏打倒のさ中、
熱病で没した。
ちなみに枚岡神社へ「神馬・御幣」奉納を行った1165年(永萬元年)は、 兵部卿
(国防の行政機関の長)、権大納言となり、その翌年には内大臣となる。
『源義経※』
鞍馬寺清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男で、幼名は牛若丸、仮名は九郎、
実名は義經(義経)、稚児名は遮那王(しゃなおう)。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟で、平安時代末期の武将。
平治の乱で父が敗死したことにより11歳の時鞍馬寺に預けられ、奥州藤原氏の当主
藤原秀衡の庇護を受ける。
治承・寿永の乱では、兄頼朝の平氏打倒の兵挙に馳せ参じ、壇ノ浦の合戦を経て
平氏を滅ぼし、その最大の功労者となるも、その後、頼朝の許可を得ることなく官位を
受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行、さらには自立の動きを見せたため、
頼朝と対立する朝敵として捕縛の命が出される。
庇護者であった秀衡の死後、頼朝の追及を受け、衣川館で自刃し果てた。
枚岡神社へ太刀二振を奉納した1171年(承安元年)の約三年後の1174年(承安4年)頃、
鞍馬寺を出奔して奥州平泉へ下る。(16歳)
『源頼朝※』
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
河内源氏の源義朝の三男で源 義経の異母兄。
父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流されたが、以仁王の令旨により、平氏打倒の
兵を挙げ、関東を平定。
1192年(建久3年)、(1185年との説もある)に征夷大将軍に任じられ、朝廷から半ば
独立した武家政権が開かれ、これが後に鎌倉幕府と呼ばれ、王政復古の大号令まで足掛け
約680年間に渡り存続する。
枚岡神社へ「御剣・砂金」を奉納は、義弟・義経襲撃(義経は衣川館で自害)の一年後の
1190年(建久元年)に行われている。
『足利尊氏※』
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で室町幕府の初代征夷大将軍、足利将軍家の祖。
後醍醐の独裁体制による中先代の乱を鎮圧したあと、鎌倉に留まり独自の政権を樹立する
構えから天皇との関係が悪化、太宰府天満宮を拠点に京都を制圧、光明天皇を擁立して
征夷大将軍として新たな武家政権(室町幕府)を開く。
皇国史観のもとでは天皇に叛旗を翻した「逆賊」と位置づけられたが、戦後はその人物像が
歴史観の変遷により大きく変化・一転して、肯定的に再評価されている。
枚岡神社へ「宝物」を奉納した1338年(暦応元年)の尊氏は、正二位に昇叙、
征夷大将軍宣下。
『楠正行〔くすのきまさつら〕※』
「大楠公」と尊称された楠木正成の嫡男として河内国に生まれ、幼名を「多聞丸」といい、
「小楠公(しょうなんこう)」とも呼ばれる南北朝時代の武将。
生年はじめ諸説については多くの史家が疑問視しているものの、明確な史料がしない以上
推測の域を出ない。
延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死、その遺志を継いで、
楠木家の棟梁となって南朝方として戦い、足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を
摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破るも、正平3年/貞和4年(1348年)に河内国北條
(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦いにおいて足利方に敗北、弟の楠木正時と
刺し違えて自害。(享年に関しては諸説がある)。
【ウィキペディアによると没年が1348年となっているが、枚岡神社では1349年(正平4年)
1月2日に「太刀・物具」献納となっており、謎が残る。】
『関白近衛前久※』
戦国時代・安土桃山時代の公家で近衞稙家の長男として京都に生まれる(初名は晴嗣)。
当主として動乱期に関白左大臣・太政大臣を務めた。
藤原氏嫡流の五摂家らしく、和歌・連歌に優れた才能を発揮し、有職故実にも詳しく、
「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集なども執筆。
地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、同時に地方に中央の文化を
伝播する上で重要な役割を果たした。
鷹狩りという共通の趣味を有する織田信長との親交を深め、1578年(天正6年)には
准三宮の待遇を受ける。
さらに本願寺との調停に乗り出し、信長が10年近くかかっても攻め落とせなかった
石山本願寺を開城させた事に対する信長の評価は高く、「天下平定の暁には
近衞家に一国を献上する」約束を得る。
1582年(天正10年)2月に太政大臣となるが、信長に同職を譲る意向から5月には辞任、
枚岡神社には1583年(天正11年)に薩摩下向の途次で参拝している。
『豊臣秀頼※』
豊臣秀吉の次男で57歳のときの子で母は側室の茶々(淀殿)、
幼名は拾丸(ひろいまる)。
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名で位階は正二位、官職は右大臣。
公家風の教育を受けていたと言われ、『長澤聞書』には「世に無き御太り」と
記されているほどの巨体は武将としての威厳があったとされている。
秀吉死後には徳川家康が影響力を強め、政局の主導権は家康の手に握られ、
最終的には大坂夏の陣で秀頼は淀殿や大野治長らとともに自害したとされる。
ただ、この大阪落城時に秀頼たちが絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体が
発見されなかったことから生存説もあるが、昭和55年(1980年)に、
大坂城三ノ丸跡地から発掘された遺骨は秀頼とされ、京都の清凉寺に埋葬された。
枚岡神社へ「行合橋改修・擬宝珠」を奉納した1602年(慶長7年)に秀頼は
正二位に叙している。
『桑山重正奉行※』
現在、詳しい人物像は調査中。
慶長8年(1603)に「豊臣秀頼が桑山重政を奉行にして、わが国最初の
観音霊場である紫雲山・中山寺の本堂、大師堂、護摩堂などを再建した」
となっていることから、豊臣秀頼に縁の人物であることは確か。
ちなみに桑山重正が枚岡神社へ「本殿建立」「釣燈籠」奉納した1605年(慶長10年)は
秀頼が内大臣となっている。
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