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吉志部神社〔きしべじんじゃ〕でよく遊んでました。

      2011/10/07

神社シリーズ?初回は、やっぱり、ゆかりの深い(私の幼少期に大変お世話になった)
吹田市の「吉志部神社」から・・・に、してみました~。


【 吉志部神社 】

 大阪府吹田市岸部北4丁目18−1

 『御祭神※』
中央座 : 天照大神〔あまてらすおおみかみ〕・豊受大神〔とようけのおおかみ〕

左の座 : 八幡大神〔やはたのおおかみ〕・素盞嗚大神〔すさのおのおおかみ〕・
       稲荷大神〔いなりのおおかみ〕

右の座 : 春日大神〔かすがのおおかみ〕・住吉大神〔すみよしのおおかみ〕・
       蛭子大神〔えびすのおおかみ〕

8柱の御祭神がそれぞれ区切られた「座」に祀られていらっしゃいます。

「略年譜」
平安時代以前に建立?(270年~310年?)
戦国時代以降に焼失?
1610年(慶長15年)に再建
1993年(平成5年)に本殿が国の重要文化財に指定。
2008年(平成20年)5月23日午前4時15分頃に出火し、本殿全焼。
同年9月8日、重要文化財の指定が解除。

   

「本殿」
重要文化財に指定されていた本殿は、『七間社流造〔ながれづくり〕※』、『檜皮葺〔ひわだぶき〕※』で、大阪府下で唯一といわれた、珍しい様式。
(屋根には『千鳥破風〔ちどりはふ〕※』と『軒唐破風〔のきからはふ〕※』を付け、外部の柱などには、彩色が残り、厚みのある屋根の曲線、軒下の彫物などに、桃山時代の特色がよく残されていた。)
しかし本殿は、全体が拝殿に覆われており、通常は見ることができない状態だった。

「概要」
実は、この神社の創建時のことはほとんどわかっていないそうです。

社伝では、『応神天皇※』(第15代天皇)の時代に『大和国の瑞籬〔みずがき〕※』より奉遷して祀ったとされ、
当時は大神宮と称し、また七社明神、八社明神とも呼ばれたようです。

また、仁安二年(1167年)の『兵範記』と言う文書に「摂津国垂水東牧吉志部村云々」
という記述がみられるようで、どうやらこの地は古くから「吉志部」と呼ばれていたようです。
ですので、すでに平安時代にはこの神社もあったとのではないか・・・ということです。

重要文化財であった本殿ですが、その『棟札※』の記述によると、白羅の国から渡来した
『難波の吉志一族※』の末裔である、「吉志家次」・「吉志一和」によって、慶長15年(1610年)に
再建されたものであったようです。

(どうやら社殿は創祀以来たびたび火災にあったようで、おそらく、応仁の乱(1467~1477年)以後の
 戦国時代にそれまでの社殿は焼失したと思われます。)

そうして江戸時代には、吉志部神社は、吉志部5か村の産土神として崇敬され、『吉志氏』の守護神として、
信仰を集めていたと伝えられています。

1833年 (天保4年)に本殿の覆屋が建てられ、1870年(明治三年)の『神仏分離※』に際して正式に
「吉志部神社」となり、大正期(1912~1926年)に拝殿・幣殿などが、覆屋に一体として
建て継がれて以降、本殿は再建当時の様相で近代まで残され、1993年に国の重要文化財指定となりました。

しかし、2008年の不審火による火災により本殿は全焼・焼失、重要文化財も取り消しとなってしまいます。
その後、氏子を中心に即時復興に取り掛かり、文化庁の指示を得ながら焼失前と同様の七間社の社殿が
再現され、吉志部神社は新しい時代を刻み始めているのです。

 

※『御祭神』
中央座 : 天照大神〔あまてらすおおみかみ〕
        (日本神話に登場する神。記紀によれば太陽を神格化した神であり、
       皇室の祖神(皇祖神)の一柱とされる)

       豊受大神〔とようけのおおかみ〕
        (天照大神の食べる食物(御饌(ミケ))の神で、そのことから五穀の主宰神となり、
         農業神ともされる。)

左の座 : 八幡大神〔やはたのおおかみ〕
        (八幡神の由来は応神天皇とは無関係で、神仏習合時代には八幡大菩薩
         〔はちまんだいぼさつ〕とも呼ばれたが、奈良時代から平安時代にかけて
         応神天皇が八幡神と習合し始め、誉田別命〔ほんだわけのみこと〕(応神天皇)と
         同一とされる。)

       素盞嗚大神〔すさのおのおおかみ〕
        (日本神話に登場する神。『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、
         『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、
         たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では
         神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。
         出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降った折、その地を荒らしていた
         八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治したとされる。)

       稲荷大神〔いなりのおおかみ〕
        (日本における神の1つ。神仏習合思想においては仏教における荼枳尼天が
         本地仏とみなされたので仏教寺院でも祀られる。
         神仏分離の下では、穀物・食物の神を主祭神とする。)

右の座 : 春日大神〔かすがのおおかみ〕
        (春日明神または春日権現とも称される。藤原氏(中臣氏)の守護神である
         武甕槌命〔たけみかづちのみこと〕と経津主命〔ふつぬしのみこと〕、
         藤原氏 の祖神である天児屋根命〔あめのこやねのみこと〕と比売神〔ひめがみ〕の
         四神をもって春日神と総称される。)

       住吉大神〔すみよしのおおかみ〕
       (底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、
        表筒男命(うわつつのおのみこと)、の住吉三神に息長帯姫命(神功皇后)を含め
        住吉大伸と称される。海の神、航海の神とされる。)

       蛭子大神〔えびすのおおかみ〕
       (ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)は、日本神話に登場する神。
        『古事記』において国産みの際、イザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との
        間に生まれた最初の神だが不具の子として生まれたため、オノゴロ島から流された
        と記されている。
        『日本書紀』では三貴子(みはしらのうずのみこ)の前に生まれ、最初に生まれる
        神ではないが、不具の子に生まれるのも、後で流されるのも同じ。
        日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多く、ヒルコが
        えびす(恵比寿・戎)と習合・同一視され、蛭子と書いて「えびす」と読む。)

※『七間社流造〔ながれづくり〕』
「流造〔ながれつくり〕」は屋根が反り、屋根が前に曲線形に長く伸びて向拝(こうはい、庇)となった
全国で最も多い神社本殿形式で、「神明造」の発展型であることから、その歴史は平安時代後期の建築である。

「流造」の屋根形状は、側面から見た場合前後対称形ではなく、正面側の屋根を長く伸ばし、その勾配は
きつくなく、前面に長く流れるように伸びる蓑甲(みのこう)から向拝にかけて、大社造同様の優美な曲線が
与えられている。

また、屋根に使用する素材も茅葺に限らず柿葺、檜皮葺、銅板葺など幅広く、側面の破風は懸魚などで装飾され、
優美な曲線を描く。

使用する柱の形状は、身舎(もや)の柱は丸柱、向拝は角柱としており、桁行(正面)の柱間が1間(柱が2本)
であれば一間社流造、3間(柱が4本)であれば三間社流造という。
吉志部神社の本殿の柱が8本なので『七間社流造』となる。)

 ※『檜皮葺〔ひわだぶき〕』
「檜皮葺(ひわだぶき)」とは、樹齢70年以上の充分な樹径のあるヒノキの立ち木から剥いた檜皮を
1.2センチメートルずつ、ずらしながら重ねて葺いてゆき、竹釘で檜皮を固定する日本独自の屋根工法の一つ。

軒先を厚く見せて重厚感をかもし出し、軽快で優美な屋根の曲線を作ることができるこの技法は、世界に
類を見ない日本古来から伝わる伝統的手法で、屋根葺工法の中で最も格式の高い技法として、貴族の住居や
寺社仏閣に使用されるようになった。(なお、現在残る技法は、平安時代以降のものと考えられている。)

※『千鳥破風〔ちどりはふ〕』、『軒唐破風〔のきからはふ〕』
「破風〔はふ〕」は、屋根の(切妻や入母屋などにできる、妻側の)三角形部分の造形で、妻壁や
破風板などを含む。
平安時代頃以降に千鳥破風や唐破風が現れ、室町末期・安土桃山時代に神社の権現造や城郭の天守のように
複数の破風を組み合わせるデザインが考え出され、寺院や城郭建築などで発展が見られた。

「千鳥破風〔ちどりはふ〕」
古くは、大きな屋根などで、窓の開口が難しくなった階層などに出窓のように突起して屋根を被せたもの
(破風部屋)が、時代が下がるにつれて単に飾りというだけのものとなり、小屋裏に部屋さえも持たなく
なることが多くなった。
切妻破風を葺き降ろしの屋根に直接置いて造られ、妻側の面を正面に据えるように付けるので
据破風(すえはふ)ともいう。主に八棟造の神社建築や天守建築に見ることができる。

「唐破風〔からはふ〕」
唐破風は、日本特有の形式で、城郭建築や、近世の寺院などで多く見られ、装飾性がある。
「軒唐破風〔のきからはふ〕」は、軒の一部にむくり(上方に対して凸形に湾曲)をつけるか、むくりをつけた
切妻に付けて造られる。城郭建築、寺社建築などで見ることができる。

※『棟札〔むなふだ、むねふだ〕』
寺社・民家など建物の建築・修築の記録・記念として、木の札または銅の板に建築の記録(築造・修理の目的、
意趣文やその年月日や建築主・大工の名・工事の目的など)を記し、棟木・梁など建物内部の高所に釘で
打ち付け取り付けた札。

内容は簡潔なものもあれば、詳細に記されたもの、絵柄が記されたものなど多種多様で、誤記などもあるが、
その建物をはじめその地域の歴史や文化に関する重要な歴史的史料となり、文化財に指定されているものも多い。
「梁上銘」と呼ぶこともある。

※『応神天皇〔おうじんてんのう〕』
第15代天皇(在位期間:270年2月8日~310年3月31日)。
誉田〔ほんだ・ほむだ〕天皇・誉田別尊・誉田別天皇・胎中天皇・品陀和気命・大鞆和気命・品太天皇・
凡牟都和希王とも称される。

※『大和国の瑞籬〔やまとのくにのみずがき〕』
『六国史日本書紀※』に記載されている『崇神天皇〔すいじんてんのう〕※』(第10代天皇)王朝の都で、
紀元前95年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都され「磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)」
と呼ばれる。

磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は現在の奈良県桜井市金屋にあったとものと推定されており、
この地にある『志貴御県坐〔しきのみあがたにいます〕神社※』には大正年間に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」
の石碑が建てられ、伝承地とされている。(実際の宮跡はこの神社の境内ではなく、境内の西側にある
天理教会の建物とその北隣りの三輪小学校のあたりにあったと推定されている。)

※『崇神天皇〔すいじんてんのう〕』
第10代天皇(在位期間:紀元前97年2月17日 – 紀元前29年1月9日)
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) – 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと) – 『古事記』 
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) – 『日本書紀』
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) – 『日本書紀』
美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) – 『常陸国風土記』
とも称される。

※『志貴御県坐〔しきのみあがたにいます〕神社』
祭神:天津饒速日命(あまつにぎはやひのみこと)
本宮の北側には三輪山(大神神社)が鎮座し、周辺には纏向遺跡をはじめとする古墳時代前後の遺跡、
箸墓古墳やホケノ山古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、垂仁天皇陵などの巨大前方後円墳群が点在する。

※『難波の吉志一族』
古代の難波を本拠とした氏族の一つに、難波忌寸(いみき)や日下部忌寸らの母胎である吉士(きし)一族がいる。
吉志というのは、大和朝廷で外交・記録などを職務とした渡来人に対する敬称で、彼らは5世紀末から
6世紀の初めに新羅から渡来た集団である。

吉士は海上交通の要路を管掌し、対外交渉に専従した船頭、水手集団であり、彼らの長い経験と実務的な能力は
きわめて有用で、、屯倉〔みやけ〕設置に積極的であった推古期(西暦600年前後)には屯倉(ミヤケ)の管理、
史(フミヒト)をつとめるなど、この辺りの職掌は渡来氏族が担っていたようだ。

屯倉〔みやけ〕とは、ヤマト政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、
のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。)

このように、郡司クラスの職掌につき、各地に派遣され屯倉〔みやけ〕の税を主掌していた吉志一族は、
摂津国や河内国で、また武蔵国でも、複雑な在地の豪族との関わりを深め、土着の豪族としての地盤を築き、
活躍する氏族となったと考えられている。

ちなみに、第八代孝元天皇の子である大彦命が蝦夷征伐のおり、大和兎田の墨坂で泣いていた嬰児を引き取り
わが子として迎えたとされ、その子が難波忌寸の祖とされている。(大彦命は阿倍氏の祖とされる)

※『神仏分離』
日本では千年以上のものあいだ日本固有の神祇信仰と仏教が混ざり合い、複雑な混淆・折衷が続けられ、
神仏両宗教と日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独特の行法・儀礼・教義を生み出し、
独自の習合文化を生み出していった。

その神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させ、神社から
仏教色を取り去っていくため、明治新政府により、全国的に公的に行われた政策。(正式には神仏判然令。)

 

参考サイト +++++++++++++++++
ウィキペディア(神社関係、神話、歴代天皇など)
時空捜査局事件簿
豊受大神
日本の宗教-神道と仏教の歴史的関係-

堀貞雄の古代史・探訪館
神奈備にようこそ!

 - 神社

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